An another side of FERRY

ボードゲーム、サッカー、ときどき、人生

私にはGOOGLEに大きな借りがある。

借りを返すあてもないのですが、いつか書こうと思っていたので、今書きます。

序章---はじめに
1章---前夜
2章---私の見た光景
終章---おわりに

長いエントリになりますが、どぞ、よろしく。

<序章---はじめに>

普段見えていない光景があります。
でも、ふとした拍子に、それが見えることがあります。
これは、2011年3月11日の東日本大震災に際して、GOOGLEが私に見せてくれた光景を記録しておきたい、といった衝動に基づいて書かれた文章です。


<1章---前夜>

ここからしばらく、GOOGLEには全く触れないまま、2011年3月12日の夕方までの、私の行動が記されています。
GOOGLEに関する記述が出てくるのは、2章からになります。よろしくご承知おきください。

2011年3月11日東日本大震災当日、私は海外から成田へ向かう機上の人でありました。
いつもとかわらない週末の休みに向かう金曜日の国際線フライトは、突然の機長のアナウンスで、非日常へとロールしていきます。

「着陸予定の空港が地震の影響で使用できないため、当機は出発した空港へ引き返します。」

その時点で、その日起きた地震の被害の甚大さを知る由もない乗客たちは、「まじかよ」「羽田へ振り替えてくれよ」「予定があるんだよ」などと、
それぞれぶつくさいいながらも、総じて「しゃーねーなー」という苦笑いの面持ちでした。

ですが、元の空港に戻ったあたりから、みな状況の異常さに気が付き始めます。
まず、茨城県に住んでいた家族に電話がつながりません。そして、東京の義父母にも電話がつながりません。
運よく電話がつながった同僚の話からも、とにかく混乱しているということしかわかりません。
関西の両親に電話をして、ようやく、阪神大震災以上の規模の地震が起こったらしいこと、茨城県の家族は、一瞬携帯がつながった瞬間に義父母に連絡をしており、少なくも、妻と二人の子供が無事なことが確認できました。しかし、どんな状況で、どこにいるのかは確認できず。

海外の空港から電話していたこの時点でも、情報の少なさもあり、まだ私はのんきにかまえていました。
空港のテレビでも、海外である日本の地震の情報を放送している局はまだありませんでした。
一旦、空港に戻ってしまったフライトが、次にいつ飛ぶのか?いつ、日本に戻れるか?ということが、その時の最大の関心事でした。

しばらく、空港に缶詰になっていましたが、次の日にならないと飛行機は飛ばない。ということで、航空会社が少し離れた町にホテルを用意してくれることになりました。その時は、家族の状況がわからない不安と、待ち時間が長かったことで、私をふくめて、みんなイライラとしていましたが、おそらく参照する機会も無いような緊急時のマニュアルをひっくり返し、限られた人員で、飛行機1機分の人数のホテル予約と移動用のバスを手配していた現地の係員の人の苦労は計り知れないものだったと思います。特に係員には日本語を話せる人が少なかったわけですが、それでも、たどたどしい日本語で一生懸命対応してもらったことに、今更ながらに感謝しています。

素晴らしいことに大部屋で雑魚寝ではなく、シングルのルームをあてがってもらうことができました。
また、全員にホテルのレストランで使える夕食券が配られて、ゆっくりとバイキングで食事をすることができました。
全く航空会社に落ち度のない天災が原因の引き返しであったにも関わらず、宿と食事の手配をしてもらうことが普通の対応かというと、そんなことはないんだろうと思います。最悪の場合、フライトキャンセルで、私たちは空港で路頭に迷う可能性もあったのでしょう。欧米での飛行機トラブルのニュースなんかでは、どちらかというと、後者の方が普通の対応であるようにも思えます。

当時、実際に被災に合われた方のことを考えると弱音をはくのは憚られますが、この日ホテルの海外向けNHKニュースでみた映像と、家族が似たような状況にいるのかもしれない。という猛烈な不安は、精神をギリギリと締め上げる類のものでした。街が燃えている映像、ヘリコプタからの空撮による津波の映像、被害の状況、無情に増えていく死者行方不明者の数。この時はまだ、原発がどうしたこうしたというニュースは伝わってこなかったように記憶しています。

ちなみに、この日、羽田便に乗った同僚は、その日のうちに羽田に着いたものの、交通機関が動いておらず、空港で寝泊まり。他の航空会社の便に乗った同僚は、行き先が成田から沖縄に変更になり、沖縄で一泊したとのことでした。

文字通りの眠れぬ夜が明けた3月12日の朝、航空会社がフライトを準備してくれました。振替便でも、代替便でもなく、前日便の遅延出発という扱いだったと思います。
今度は無事成田に着くのですが、成田からの交通網も麻痺しまくっていて、電鉄各社も線路の安全確認に追われているような状況でした。唯一京成の普通路線が動いているということで、大きなスーツケースをもったまま、ぎゅうぎゅう詰めの電車に、通常の特急でかかる時間の5倍くらいの時間揺られて、なんとか京成上野にたどり着きました。

同行していた同じ茨城県在住の同僚は常磐線で行けるところまで行くとJR方面へ消えていき、私は東京都北区の義父母の家を目指します。
この段階で家族がとある避難所にいる旨は、義父母のもとに連絡がきており、一日休んで、交通機関が確保できれば、茨城へ行こうと考えていました。

そして、15時か16時頃、やっとたどり着いた義父母の家のテレビで、私は衝撃的な映像をみることになります。
そう、屋根の吹き飛んだ、福島第一原発の映像です。

キーワードとしての「チェルノブイリの事故」は知っていても、日本人として、放射能に対して反射的に脳裏に浮かぶのは広島と長崎の原子爆弾のイメージです。茨城から福島までの距離は、当時のイメージでざっくり100km~200kmという感覚でしたが、それが安全な距離なのかどうなのか、知識としてもちあわせてはいませんでした。もうひとつの不安要素は、茨城県東海村にも原子炉があることでした。こちらは、茨城県内。「すぐそこ」です。当時の混乱の中、東海村の原子炉が100%安全な状態なのか、福島第一原発と同じような事故が起こる可能性があるのかないのか、判断する材料がありませんでした。

わからない。本当にわからないことだらけでしたが、家族を避難所から、東京の義父母の家に連れ帰る手段があるなら、細かい段取りはおいておいて、まずそれを実行すべきと思いました。

JRにトライした同僚に電話をかけると、常磐線は取手から先は運行しておらず、取手のビジネスホテルで立ち往生しているとのこと。電車の線はなくなりました。家族を連れ帰ることを思うと、義父母に車を借りるしか手が残されていないのですが、余震が起こるリスク、橋や地割れなどで道路が寸断され通行止めになっているリスクを考えなければなりません。

2010年から2011年にかけては、スマホの普及比率が20%から40%に急増する転換期ですが、残念ながら私はガラケー(当時そんな呼び方はありませんでしたが)を使っていて、GOOGLE MAPも使えず、インターネットで調べ物をするのも容易ではない環境でした。仕方なく、少しでも情報を得られるように、義父母の家のパソコンを借りて、少しでも参考になる情報が無いか、探し始めました。



<2章---私の見た光景>

理系の端くれとして、放射能が物理拡散していく場合、風向きの要素はあるにせよ、発生源からの距離を稼ぐことがもっとも重要であると考えていたので、まずは、どのくらい距離が確保されていれば安全と言えるのか?について調べ始めます。原子爆弾と比べても仕方がないだろう。ということで、チェルノブイリの事故当時、半径どのくらいの土地が避難対象となっていたのかを調べて、ざっくりその2倍くらい離れれば一安心だろうと見当をつけます。

チェルノブイリ 避難 半径」等のキーワードは、今検索すると、いろんな候補が出てきますし、すぐに欲しい情報にたどり着けますが、2011年当時、残念ながら、具体的な情報を探し当てることはできませんでした。東京の100km圏内に原子力発電所が無いことは知っていた(一番近いのが東海村の原子炉で100kmちょい、その他は静岡を除けば、だいたい200km以上)ので、ひとまず100km離れていれば大丈夫だろうと目星をつけます。福島第一原発から茨城県の所在地までは100kmを超えていたので、おそらくすぐさま深刻なことになる可能性は高くないと推測。

その他、「国道6号線 通行止め」などど検索してみますが、ただでさえ混乱の中、当時ツイッターもはじめておらず、ニュース的なコンテンツとして、そんなオンタイムの情報がWEB上でひっかかるわけもなく、とにかく出かけようと思っていた矢先のことでした。

記憶が確かならば、GOOGLEの検索トップページに「地震関連情報」というリンクがあり、そこの中に、直近xx時間(確か24時間だったか?)の位置情報プロットというページがありました。

そこには、携帯の位置情報が観測されたポイントが点として表示されていて、その携帯を持っている人が、道路を移動した結果として、移動可能なエリアが位置情報の点の集合として、表示されていたのでした。人の移動した軌跡が線状に残っている白地図と思ってもらえれば想像しやすいかもしれません。今ほど、GPS内蔵スマホがあったわけではないので、基地局経由の情報なども含まれていたのかもしれません。位置精度もいまほど高くなかったかもしれません。それでも、国道など比較的太い道路はくっきりと色が付けられ、地震の為に移動もままならないエリアを除いて、どこまで移動できるか(実績として移動できたか?)が示された地図を手に入れることができたということです。

この地図を見た時、ひとこと「すげー」と思いました。それは、欲しいものが手に入った喜び以上に、この情報を公開することが役に立つと気が付き、地震から時間のたっていない状況で、一般公開に踏み切る判断をし、WEBページ上に実装してのけた、発想と行動力に対する感嘆でした。GOOGLEのもとに集まった情報を表示しているのか、それとも、カーナビーメーカーが使っているGPSの交信情報をGOOGLEが入手して表示しているのかわかりませんでしたが、本来はビジネスに用いられ、金、もしくは、価値を生み出している、人や車の動線の情報が示されていることに対する好奇心でした。

そして、その情報は、6号線が健在で、東京から茨城県の自宅までたどり着ける可能性が高いことを示していました。余震のリスクは、どんな交通手段をとっても、リスクの度合いが変わるわけではないので、すぐさま車で連れ帰るべく準備を始めました。

避難所の飲み水と食事の状況がわからなかったので、簡単な食糧と水のペットボトルを購入し、まだ普通に買えていたガソリンを満タンにし、夜8時頃に出発。取手で足止めを食っていた同僚に連絡し、一緒に車に乗っていくことに。混雑も予想されましたし、なにかと一人より二人の方が心強いというのもありました。道路は北上すればするほど混雑していきましたが、道が凹んでいるようなこともなく、危険を感じるような瞬間はありませんでした。

しかし、霞ヶ浦を超えてしばらく行くと、停電で信号も町中も全く明かりが灯っていない状況になりました。混んでいる6号線よりも、少しでも距離を稼げるように抜け道を走っていたのですが、夜中になっていたこともあって、車はほとんど走っておらず、ヘッドライトの明かりだけが頼りというような状況でした。ところどころ、アスファルトの道路にグロテスクなひび割れが走っているところがあります。完全に地割れになっていて、大きな段差が付いているところもありました。

同乗していた同僚を彼の家の近くでおろし、家族が避難していたとある高校に着いたのは午前2時頃でした。200人規模の人がところどころに固まって寝ている体育館の中に入り、布団にくるまっている家族の顔を見つけた時は、安堵で魂が抜けたようになりましたが、まだ、帰りが残っています。東海村の原子炉の状況がわからない以上、20km圏内にある避難所を離れる方が重要だと考えました。朝まで待って、今通ってきた道が余震で通れなくなるリスクもあります。

東京へ帰る道すがら、朝早くから営業していた牛丼屋で食べた、牛丼の味は、今でも思い出すことができます。
同じように、あの日GOOGLEの位置情報プロットをみた時に、心に湧き上がってきた想いも、鮮明に思い出すことができます。
驚き、興奮、安堵、勇気、そして、家族を迎えに行くことができるという喜び。それらがごった煮になった言葉にできない気持ち。あの日、GOOGLEからもらったものです。

私にはGOOGLEに大きな借りがある。


<終章---おわりに>

長々と駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
願わくば、「東日本大震災で被災して、こんなことがありました」という話の側面だけではなく、「普段触れることのなかった技術に、いくつかのタイミングが重なり遭遇した」話として、受け取っていただければ幸いです。
皆さまにも、良い出会いが訪れますように。